6 悟りへの道
三つの段階
すべてのものは縁起によっているのであるから本体を持つことが無く、したがって全てのものは空であり、空であるからこそ生滅変化しながら存在できるのです。
その存在はあるのでもなく、その存在はあることが無いのでもありません。
空とはこのようなことを言っているのかな、という理解は私なりにしてみたつもりです。
しかし残念ながら、それで空がわかったわけではなく、ましてや悟りには程遠いのです。
ナーガールジュナにはじまる大乗仏教哲学、中観においても、この空が理解できても悟りにはならないと言っています。
智恵は三つの方法によって得られます。それは、学習、批判、瞑想の三つです。
学習とは仏陀の教えや哲学書の勉強のことであり、批判とは空の教えを元に実在論を論理を持って批判してみること、そして瞑想とは止心をもって観察することです。止心をもって観察するとは、直感を意味します。
ナーガールジュナは哲学者と言われています。
しかしナーガールジュナは単に哲学をいかにも学問としてのみ説いているのではありません。ナーガールジュナ自身相当な神秘主義者であったとの記録が見られるようです。
今ここにこうして言葉で色々解釈し、説一切有部の哲学を批判しているのは、この段階の前二段に相当することです。もちろん本当の意味で前二段に相当するなとどとは思ってもおりません。こんなに簡単で浅いものではないからです。ですから単に位置づけとしての意味で相当していると言っているに過ぎません。
しかし問題は第三の段階です。
直感
止心によって対象に心を集中し、静寂な境地に達したならば、次に対象としているものは心の現われであって、究極の実在ではないと心に感じ、最高の真実としての空性を直感するのです。
観察というのは、実在するものと心、空性などをありありと直感することです。
この止心と観察を駆使して更に修行を重ね、十地を経て悟りに至るといわれています。
十地というのは修行の段階のことで、最初は初歩的な実在論から始まり、真実の智恵パーラミータを向上させながら、ついには直感知のパーラミータに至って、仏となる段階のことを言います。
一応このように言われているのですが、瞑想に入って直感を以って空を体感するとはどのようなことなのでしょう。
これは私には解説できない領域ではないかと思います。
実際の経験者と言うか悟りを得られた方が、ご自身で体感されておられることであり、お尋ねしても言葉で説明して頂けるとは限りません。
しかし、私の体験としてひょっとしてこのような事かも知れないと思うことがありますのでお話ししてみたいと思います。
私は四十有余年電気関係一筋に生きてきた人間でございます。仕事は一から叩き込まれ、特に研究開発を中心とし、最終的には顧問を務めております。
もう今ではそのようなことは御座いませんが、研究開発に忙しかった頃の話でございます。
一つの製品を開発しようとしますと、たいてい大きな問題にぶつかり、どう解決したらよいのか本当に苦労するものです。
どのように考えてもなかなか解決策が見つからず悩んでいるとき、それこそある瞬間に、ぱっとひらめくのです。
解決策が見つかるのです。頭の中に解決策が浮かんでくるのです。
ところが、その浮かんでくる解決策と言うのは、言葉ではありません。絵姿と言うか、構造そのものと言うか、まさにそれが動作しているのです。動いているのです。
それはしっかり明瞭に頭のかなに残りますから、これを図面に落としたり、数値計算したりして試してみるわけです。
うまく行くことはしょっちゅうではありませんが、なんどか解決いたしました。
ひらめきと言うのは、考えに考え、追い込まれた状態でこのようにして出てくるのです。
これだけは自分の経験として間違い御座いません。
話を戻しますが、悟りへの道として、前二段階を終え、第三段階の直感による空を見るというのはどのようなことなのか、私には分りませんが、このようにして観られるのかもしれないと想像しております。
むすび
存在するとはどの様なことなのか、また本体とはどの様なことなのかを、説一切有部の哲学をもとにひも解いてみました。
そうして、大乗仏教の空の思想をナーガルジュナの哲学に求めてみたわけです。
ものは全て縁起によって生滅変化するものであり、未来永劫変化しないと言う本体は存在しない。しかしものは実在すると言っても誤りではないし、そこに実在するのでもなく実在しないものでもないと言っても誤りではない。空というのはそのようなものであり、空自身も空なのであると。
一言で言えば、全てのものは、縁起によっているものであり、本体を持たないのであるということを空と言うのです。そして全てのものは空であるからこそ存在できるのです。もしものが本体を持つものならば空ではありませんし、存在することも出来ないのです。 しかし、悟りとしての空はそのようなものではなく、止心と観察、瞑想による直感にいたる修行をしなければ体得できないと言うことを知ったわけです。
ここではそのほんの初めの部分としての勉強の段階を覗いてみたということです。
中観にいう空は、有に対する無、知に対する無知ではありません。人間の言葉と思惟、つまり我々の表現手段を超えるものであって、言語をもって説明することは不可能と言うことであります。やむなく空という言葉を用いているだけのことなのです。
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