キリスト教と仏教 愛と慈悲 |
愛 キリスト教では先ず最初に神の愛があります。 神が人間を愛すればこそ、神の使いとしてイエスキリストを出現させられたのです。 神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである、とされています。 キリストを出現させられたことは神が人間を愛されているからにほかならないわけです。 キリストは言います。 私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。友人のために自らの命を投げ出すのは最大の愛である。と。 そしてキリストは十字架の上に命を投げ出したのです。人々を愛すればこそなのです。 人々は神を愛さねばなりません。神が人々を愛してくれているのですから当然のことです。 そして人々は隣人を愛さねばなりません。それは、すでに神からそのように命じられているからです。隣人を愛せよと。 神を愛していると言いながら、兄弟を憎むものは偽りである。現に見ている兄弟を愛せないものが、どうして目に見えない神を愛することが出来ようか。 神を愛するものは、先ず兄弟を愛さねばならないのです。 慈悲 仏教では愛してはならないと言います。 愛と言うのは本質的に自己愛なのです。恋人を愛すると言っても、その恋人を自分のものにしたいという欲望が伴っているからです。 またそのことに執着してしまうからいけないというのです。 愛は欲望を含んでいると言う意味で、仏教では欲愛といいます。 また、執着すると言う意味から、渇愛といいます。 法句経、原始仏典には、「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ずる。愛を離れたる人に憂いなく、恐れなし」と記されています。 仏教においては愛から離れることが求められるのです。 そうして仏教では慈悲が説かれます。 慈悲の慈は、原語ではマイトレーヤーといい、友と言う言葉から作られています。慈というのは、全ての人に対して友情を持たねばならないと言うことを言っています。つまり、欲望のない、執着のない愛を持てと言うことにほかなりません。 慈悲の悲は、言語の意味は呻(うめ)きです。人生の苦しみの中で呻き声を発します。その声を発しことのある人でなければ他人の呻きは本当には理解できません。呻いたことのない人は、他人の苦しみを分ったと言ってもそれは綺麗事にしかすぎないのです。 一緒に呻かなくては本当に理解しているとはいえません。 仏教で言う慈悲とは、他人を本当に理解し、他人と共感することです。その他人と別の位置に居ることではないのです。その人に重なってしまわなくてはなりません。 苦しみを全く等しく背負うのです。 慈悲の心を常に持たれているのが、仏です。 仏というのは常に人々とともに呻いていられるのです。 仏というのは、人間の真の理解者なのです。 |
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