明王と天
初めに
ほとけの世界には色々の仏があります。
如来と菩薩に付いては、別にまとめてありますので、そちらをご覧ください。ここでは不動明王などの明王と、弁天様などといわれる天について述べてみたいと思います。
とにかく分りやすくまとめる事を主眼としています。
どのように違うのか、そしてどのような特徴があり、仏像としての見分け方など述べてみたいと思いますが、一般論として纏めてありますので、概念的になる場合や、厳密さを欠く場合もありますが、ご了承ください
中田良作 拝書


1 明王

明王とは
上座部が大衆から離れていったのと同じようなことが大乗仏教にもおきてまいりました。理論にこだわったことが原因で、大衆に理解されにくくなってきたためです。
そしてヒンズー教が成長してきますが、仏教はそのことに気づき、分りやすくするためにインド土着の神々や、ヒンズー教の神などを取り入れた密教となって発展してきます。
仏の世界を描いた曼荼羅の前で、呪文を唱え、大日如来を念ずればその身は直ちに仏になれるとされました。
この密教が、取り入れたヒンズー教の神々に独自の解釈をつけたものが明王です。
密教では、如来も菩薩も、あるいは明王もすべて大日如来の化身であると説きます。
密教の呪文は真言といわれますが、明王はこの真言に精通しており、明呪の王ともいわれます。
そして大日如来の化身として現れるものは、如来の姿をした自性輪身、菩薩の姿をした正法輪身、明王の姿をした教令輪身の三種類の化身であるといわれます。
教令輪身とは、大日如来の衆生を救えという命令を忠実に実行する姿を言います。明王は衆生救済に一生懸命努力するわけです。
明王には色々ありますが、中心的存在は不動明王です。
そのほかに、降三世明王、金剛夜叉明王、軍茶利明王、大威徳明王が重要な明王であり、不動明王と合わせて五大明王といいます。

不動明王
梵語ではアチャラといい、その意味は、動かない、という意味であり、これを漢字に訳すときに不動と訳して不動明王となりましたが、不動尊とか不動使者などともいいます。
アチャラというのは、ヒンズー教のシバ神のことで、破壊と救済という一見矛盾した性格を持っています。
こ のため不動明王もその性格をもっており、煩悩を破壊する一方、仏教を信ずる人をとことん救済するという性質を持っています。
不動明王は、特に神山幽谷で修行する人を守るとされており、修験者に信仰されています。
また、護摩をたきながら願い事を行う護摩祈願の本尊としてまつられています。
これは、護摩木の炎は不動明王の化身とされるためです。
そしてその炎は、智恵の炎であり、煩悩を焼き尽くすものであります。
仏像としての不動明王は、そのカルラと言う炎を表す火焔光を背にしており、激しい怒りの表情をしています。
口からは犬歯が飛び出し、額には皺をよせ、目は大きく見開いて強烈な怒りを表しています。右手には剣を持ち、左手には羂索(けんじゃく)を持ちます。羂索は投げ縄のような武器ですが、この羂索は鋭くどこまでも延びて煩悩を捉えるのです。
立像と坐像がありますが、坐像には角材を井桁のように組み合わせた台座に座ることが多くみられます。

倶利伽羅竜王
倶利伽羅不動ともよばれ、不動明王の化身とされます。
右手に持つ剣に龍が絡み付いています。龍は煩悩、剣は悟りを表し、煩悩と悟りとが絡み合っているのは、煩悩に覆われた娑婆世界がそのまま悟りの世界であることを意味しています。
滝などの横に置かれ、修行の際の信仰の対象となります。

降三世明王
欲界、色界、無色界の三界を降伏するという意味です。
また、貪瞋痴を降ろすので降三世ともいわれます。貪瞋痴というのは、人が持っている基本的な煩悩で、物事に執着する貪欲な欲望、心をかき乱す怒り、おろかな愚痴という三つの煩悩をいいます。この三つの煩悩を三毒とも言い、その三毒をなくすから降三世というとも言われています。
像としては大自在天と、烏摩という二つの悪魔を踏みつけにしています。

金剛夜叉明王
ダイヤモンドである金剛と名づけられているのは、何物にもまして固いことを示していますが、何ものにも劣らない優れた力を持って煩悩を断ち切る力を持っているということを示しています。
目を五つ持っています。
その五つは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五つの識を表現するとともに、大日如来の五つの智恵を表していると言われます。

軍荼利明王
軍荼利(ぐんだり)とは、甘い飲み物、甘露のことで、梵語の音写です。
一切の悪を調伏して、甘露を持って衆生を助けようとしているのです。
虚空蔵菩薩の化身です。
すさまじい顔をしており、手足には多くの蛇を巻きつけています。蛇は煩悩を表し、ことごとく退治することを示しています。
八本の手を持つ像が多く作られています。

大威徳明王
色々の明王があり、何本もの手を持つ明王もありますけれども、六本もの足を持つ明王はこれだけです。
六面六臂六足で、六つの顔、六本の手、六本の足を持ちます。正面の顔の左右に少し小さめの顔が一つづつあり、頭上に小さな顔が三つあります。そして、青い水牛の背に、鞍をおかず、直接乗っています。

大元帥明王
梵語の直訳は、広野という意味になります。もとは広野に棲んでいて、旅人を捕まえては食べていたのを、仏陀の説法を聞いて改心し、仏教を守る神になったと言われます。
広野に棲んでいたということから、軍神として信仰され、外敵に対して戦勝祈願するときにあがめられました。
また護国のほかに、疫病からも守ってくれます。
手は四本であったり、八本であったりしますが、右手の一つで拳を握り、人差し指と小指を立てた印を結んでいます。

愛染明王
梵語ではラーガラージャといいます。ラーガは性的な意味をも持つ愛欲、ラージャは王を意味します。
愛欲に染まった王ということで、愛染明王と言われるわけです。
愛欲は誰にでもある強い煩悩ですが、愛染明王はこれを無理に断ち切るのでなく、愛欲を悟りに変えるというのですから有り難い明王です。
大日如来の世界はこの宇宙全体であり、煩悩も悟りもともにこの宇宙によって生じてきているものです。ですから根源は一つであり、強い愛欲も悟りに変わって何の不思議もないというわけです。密教ではこれを煩悩即菩提といいます。
その考え方は、インドの昔からの考え方を取り入れたもので、現世の幸福をそのまま認めて尊重する姿勢を密教が取り入れたものです。
しかも少し驚かされるのですが、性的興奮の最高状態は悟りの境地であると言っており、この考えを愛染明王に持たせたわけです。
愛染明王の像は、憤怒の表情で、一面三目六臂にされるのが多く、獅子頭の付いた冠を冠り、その獅子頭から長い紐が左右に垂れ下がっています。
身体は真っ赤で、大きな壷の上の蓮華座に座っています。

孔雀明王
インドには毒蛇が多く恐れられていましたが、これを食べてくれるのが孔雀です。このためインドでは孔雀を神聖なものとしていました。
毒蛇は煩悩を意味しますので、これを退治する偉大な孔雀ということで、孔雀明王が誕生したわけです。
明王としては珍しく、孔雀明王のみが優しい女性的な顔立ちをしており、恵みの雨を降らせ、災難を防いでくれます。
孔雀の背の上に座り、白い布をまとって、宝冠、瓔珞、腕輪など多くの飾りをつけています。

烏枢沙摩明王
うすさまみょうおう、別名として、火頭金剛、不浄金剛ともいわれます。
この明王は、悟りを開くとき、全ての不浄を浄に変え、諸悪魔を退治することを誓いました。
日本に伝えられると、不浄を浄に変えるということから、トイレの守りとして信仰されるようになりました。
烏枢沙摩明王はこのように民間の信仰対象となったため、色々の形に表現され、定まった特徴を持ちません。
ただ、目が狸のようにくりくりしているのは共通しています。
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